新幹線で小林勝行。今年始めて聴いた音楽にする。野村くんが泊まりにくる。中野一部のDVD見て寝る。

寒い。風邪をひく。喉が痛い。会社の新年会を早々に退散。

テリーキャリア、ホールディンオンでビート組んでみるがなんとも言えん。恋する制服読んで静かな夜を過ごす。そういえば、ドミュン本の長渕震災復興文についての文章にすげー違和感があった。震災後、たしか長渕があの文章出したのは4月だった気がする。まだ一ヶ月しか経っていないのに東京の生活は平穏を取り戻しつつも、その春の陽気が変な非現実感を助長するような春うらら。今、日付だけ思い出しても、あん時の感覚ってなかなか思い出しづらい。3月13日に俺は新宿バルト9でドラえもんを見ていた、今現在から考えてみれば、あの状況で映画?、だがあん時、意味わかんなくてもそれぞれみんな生活してたわけだ。とにかくここ東京に住んでても、それぞれのやり方で生活をし、それぞれ何かしらを考え、行動したり寝たりしてたわけだ。その中で長渕の文章は、震災から一ヶ月原発が深刻な状況の中で、地震津波、地球が起こした自然現象のみを指名し怒り喧嘩を売っていた。そして今回自然の力にやられてしまった人々たちを励まし力強いエールを送っていた。とても真っ当にそれは必要な行為でありそれを長渕は自分の言葉で力強く文章にしていた。それをドミュン本のライターは、あの状況で原発問題に触れようとしない老害と言い切り、それを前振りにして斉藤一義のずっと嘘だったんだぜを賞賛していた。この場合大事な事はなにか?何が正しいかなのか?あの時、4月、まだ純粋な震災の傷も癒えていない状況であの復興文を読み上げた長渕が老害か?それで持ち上げられるのがずっと好きだったんだぜ、ではなくて、ずっと嘘だったんだぜ、なら放射能で汚染されてるのはお前の思考だろうが。歌の歌詞を汚されたファンの気持ちは何も考えないで、よくわからない「意識的」なるものを表明しなけりゃ「正しくない」とされる世の中なんてほんとダルいっす。

俺も「記憶がないぜ」って言ってみたいぜ。

ゴルフの撃ちっぱなしで疲労。夕方の中野歩いてる。

渋公で般若。終わってから高橋さんと飲む。途中で岩淵佐久間さんくる。

ポール。情けな過ぎていやになる。ってまだ書ける自意識が問題だ今の時代。悲しいというよりも虚しくて、なにもしたくなかったので夜は七彩でラーメン食って、家でももくろばっか見る。過去のライブを見たときのあの熱狂と感動とともに、もうすでにここに彼女たちはいないという感覚がすごい。とくに中野は別れた彼女との思い出を見ているような感覚になる。エンターテイメントとしては素晴らしいとしても、それは健康的にもよくない。彼女たちの顔つきもどんどん変わるし、泣き顔よりも笑顔の方が多くなる。泣きたくて人を好きになってるわけじゃないんすよ。
宇宙人ポール最高。